私は以前街中で、リストカット跡だらけの腕を晒している女性を見ました。腕全体に水ぶくれのような跡が走り、2メートル程度離れていてもわかるほどのはっきりとした傷跡でした。
私は、その女性に哀れさを感じ、またこの女性がつらい、我慢できない出来事にあったり、境遇にあるのかもしれないと考えたりしました。しかし疑問に思うのは、そのリストカット跡を見られることに対してのその女性の心境です。
以下では、このようなリストカット跡の露出がどのような心境下でなされているか考えたいと思います。
なぜリストカットするのか
まずリストカットを行う人々の心理ですが、調べてみると色々複雑なようです。【ウィキペディア:自傷行為】精神医学や臨床心理学による視点では、リストカットを含めた自傷行為は生きる願望が屈折した形になって現れる行為であり、自殺とは明確に異なる行為であると考えられています。
また肉体を切ると、脳内麻薬とも呼ばれる神経伝達物質エンドルフィンが分泌され、精神的苦痛が緩和するので、それを無意識的に期待して切る者もあるとのことです。
直接的な原因としては、「周囲の目や気を引こうとして行う」、「現実逃避の手段」、「痛みによって助けを求める」、「攻撃衝動を自分に向ける」などが挙げられますが、ケースバイケースかつ複合的で、原因特定は難しいとのこと。
しかし、これらとは全く異なるSMプレイの中で自傷する者や、パートナーの性的嗜好からその求めに応じて行う人もいます。更にファッションとして行うこともあり、ゴスロリのようなファッションスタイルの一部としてリストカットを行い、跡を晒す人もいます。
なぜリストカットを晒すのか
このようにリストカットに至る心境はケースによって様々であると分析されていますが、リストカット跡を晒す人々の心理はどのようになっているのでしょうか?まず、単に気にしていないという人々もいるかと思います。それは、現状に満足している人間にとって、リストカット跡は過去の小さな過ちであり、単なる傷跡と同様に美醜の問題以上の意味を持っていないのかもしれません。それ故に、憚ることなくリストカット跡を露出していると考えられます。
それ以外の自ら進んで露出しているような人々にとってはどうでしょうか?
私は、ボディピアスを付けることやタトゥーを入れることと同等な意味で、リストカット跡を晒すことがコミュニケーションの一手段になっているのではないかと考えます。
ボディピアスを付けている、タトゥーを入れている、自発的な身体改造をしている人々は、マジョリティから排斥されやすいため、同様な者で集まった結束の固いコミュニティを作るという特徴があります。そして、ボディピアスを付ける、タトゥーを入れるという行為そのものは、自身の意志だけで実行できるため、承認欲求の満たされない人々が行い易い行為であると考えられます。
本来、人が何らかのコミュニティに認められるためには、他者に能動的に接触するか、集団の中で何らかのアピール(優れたことをする、悪いことをする、目立つことをするなど)を行う必要があります。しかし、ボディピアスやタトゥーのコミュニティでは、それを付ける、入れるだけで強い共感を得ることが可能です。
このように、ボディピアスを付ける、タトゥーを入れる行為は受動的コミュニケーションの手段であると考えられます。【分析の記録:受動的コミュニケーション】
そして、このリストカット跡を晒すという行為もまた、マジョリティから距離を置かれるようなものであるため、リストカット跡を持つ者同士は強い共感を感じ、強く結束するように思えます。よって、リストカット跡を晒すという行為は、ボディピアスを付ける、タトゥーを入れる行為と同様な、受動的コミュニケーションの一つであると考えられます。