受動的コミュニケーション

受動的コミュニケーション


人は、生存のためと暇潰し、そしてコミュニケーションの時間で一生の全てを費やす。人間の行動一つ一つは、この3つの目的のクロスオーヴァーだ。しかし、他者の目が届く空間での行動は、全てコミュニケーションの手段という側面を含んでいると私は考える。

受動的コミュニケーションとは

我々は、コミュニティにおいて自身の居場所を作る、他者を言葉で操作して何らかのリターンを得る、生殖のために自身を承認してもらうなどのために、能動的に他者にアクセスすることをコミュニケーションとして認識している。

しかし私は、学業に専念する、運動で好成績を得るために努力するといった、他者にアクセスしない行為もまたコミュニケーションであると考える。このような行為を、受動的コミュニケーションと名付けると、人間の行動のほとんどがコミュニケーションを目的として含むと考えることができる。

それは、我々が自己実現のためだとか、自身の信念に基づいてという建前で行動していることも、全ては、他者の承認を得るため、他者を操作するなどのためなどに行われているということだ。

受動的コミュニケーションと序列

このように考えるのは、コミュニティにおける序列が、生存や欲望の実現など人生に決定的なことを左右すると共に、受動的コミュニケーションがコミュニティにおける序列や位置づけに甚大な影響力があるからだ。

学生の休み時間、生徒はグループで話したり、遊戯的なスポーツに興じたりしている。その中、一人で本を読んでいる者もクラスに一人は居ただろう。彼/彼女は意識的か無意識的にか、同じ趣味の者を篩にかけるため、自身を高尚に見せるため、他者を拒絶する(※)ためにその行為を行う。

勉強や運動に専念し、成果を出すことのコミュニティに対する影響は大きい。そのような成果はコミュニティに知れ渡り、成果を出した者はコミュニティに一定の承認を与えられる。このように考えると、俗世に興味がないように思える学者でさえ、コミュニティの高みを目指して、研究に専念しているのだと考えることができる。

※拒絶はコミュニティに承認されないかもしれないというリスクはあるが、コミュニティにおいて相手を貶めたり自分を引き上げたりする効果がある



このように、我々の行動のほとんどがコミュニケーションであると言うことができる。

しかし、そんな本心を吐露する人はいない。「生命の神秘を解き明かす」と言って自分の全ての時間を学問に費やしていている者、「俺は一番にならないと気が済まないんだ」と言ってスポーツの高みを目指す者、それぞれ様々な理由をつけて自身の行為の中立性を主張する。

しかし結局、コミュニティの高い位置にのぼり、欲望を満たしたいだけというのが人間である。
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