2012年7月31日の日経新聞にて「仮面の体験」なる、小説家有吉玉青のエッセイがあった。有吉玉青は、『不信のとき』や『悪女について』で有名な有吉佐和子の娘である。この「仮面の体験」では、ニューヨーク留学中、玉青が仮面劇を体験したことが語られる。
それはパフォーマンスの授業だったらしく、好きな仮面を選んだ後、他の学生とペアを組み、そしてペアでその仮面を交換して思い思いに演じることが命じられた。玉青はキツネの仮面を選び、鬼瓦の仮面を手にした女学生とペアを組んだ。演技の経験が無く、この授業ではいつも後ろで小さくなっていた玉青だったが、キツネの仮面を着けた相手が鬼瓦の玉青に怯える演技を始めたとたん、「もっと怖がらせてやろうじゃないか」という気になり、相手を激しく威嚇したという。
このことを玉青は、仮面を着けた自分が羞恥心も感じず、操られているかのようだったと述懐している。そして、普段の自分も仮面を着け、のっぺらぼうの自分を演じているのではないかと恐怖を感じたことを最後に話を締め括る。
このような仮面劇は、ギリシア悲劇やイタリアのコンメディア・デッラルテ、日本の能など神話と結びついた演劇において、世界的に広く見られ、祭礼や儀式に起源を持つ。
「仮面の体験」で玉青に起こった感情の変化を思えば、古代人が
装着するマスクがかたどっている神・精霊・動物等そのものに人格が変化する(神格が宿る)と信じたこともうなづける。
【ウィキペディア:仮面】
また仮面による感情の変化を、享楽のために利用してきたという人間の歴史があり、中世ヨーロッパ発祥の仮面舞踏会は、「風紀を乱す元凶」として時の施政者に禁止令を出されたこともあるという。【ウィキペディア:仮面舞踏会】
それは実際に、性を開放する集いのような背徳的なものだったかもしれない。
現在でも、仮面舞踏会やそれに類似する仮装パーティー等の集会は世界中で広く行われているが、これらが背徳性に結びついたもので、キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』のような会を目指しているのかは定かではない。
アイズ・ワイド・シャット (1999/07/16) 監督:スタンリー・キューブリック 原作:スタンリー・キューブリック 出演:トム・クルーズ、ニコール・キッドマン 予告編 Amazonで詳細を見る |
仮面を着けることによる、匿名性を有する状況や、匿名性が無くとも玉青が経験した感情を読み取られない状態では、人間の感情や行動に変化をもたらすことは事実に思える。
このような仮面をしたときの人間心理についての研究を私は知らないが、匿名性があるネット上における人間行動の心理は、実験的でない論考が巷に溢れているようだ。
さらに、普段の我々が「仮面」を着けて生きているという話については、ユング心理学のペルソナという概念がある。ペルソナは、家族の中での自分、学校での自分、会社での自分など、躾や教育、社会のルール、自分の観察等によって形成される、それらの集団内での対外的な自分のことである。
玉青はまた、ペルソナの他は空っぽで、自己が存在しないことに言及している。人によっては、ペルソナと対照的に、自己の内的側面があると考えるものもあるかもしれない。しかし、一人でいるときの自分もまた自己の内省という観察者によって形成された同じ質を持つものだと思える。
デカルトの「われ思う、ゆえに我あり」のような、主体が存在し得ないことは、近年論理的にも科学的にも示されているように見えるが、長い話になるので今回はここまで。