醜い日本の私 中島義道 著

醜い日本の私
新潮選書
(2006/12)
中島 義道
★★★☆☆
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縦横に張り巡らされた電線やド派手な看板、商店から溢れる絶え間ない音楽に宣伝放送、こうした乱雑な風景は商店街や海水浴場など日本中至る所に見出される。

しかしそんな醜い日本の実態に、我々が気付くことはなく、むしろ「わびさび」の簡素な美を認め、不調和に美を見出す特殊な美的感覚を持つ民族として自尊の念が先に立つ。

このような浅はかな日本人の感覚を批判し、そして分析する、元電通大教授・中島義道による日本人論である。

中島義道:「戦う哲学者」として知られる、日本の哲学者。専門はイマヌエル・カント。【ウィキペディア:中島義道

醜い日本の私

1. ゴミ溜めのような街

乱雑にとぐろを巻く電線に、おびただしい原色の幟や看板、更にはけたたましい音楽や宣伝放送が鳴り響く日本の商店街。日本人は、この醜い光景に心地よさを感じる。それは商店街が祭りにおける縁日の延長であり、日本人の大部分の感性がこのような風景を求めているからだ。

しかし日本人が、欧州の人々に比べて美に鈍感だというわけではない。街は清潔であり、人々のファッションや個々の住宅も洗練され、趣味豊かである。そして鎌倉や京都の寺院のような伝統の美を鑑賞するために、老若男女がそこに詰めかける。

日本人はまた、このような寺院に見られる「簡素を好むわびさびの文化」を、さも自身の美の基準であるかのように振る舞う。そして、ベルサイユ宮殿の装飾過多を批判し、中華街のケバケバしさを嘲笑する。

ところが、電柱や電線、派手な看板や歩道に押し出されてくる商店の棚や旗や垂れ幕、喧しい宣伝放送を排除し、商店街をより簡素にしようという著者らの活動は激しい抵抗に遭う。

そこで著者は主張する、商店街や祭りのような「けばけばしい原色の炸裂あるいはすべてを呑み込む混沌」こそが「本来の日本人の趣味にぴったりフィットするもの」で、「むしろ、銀閣寺や龍安寺こそ、日本文化の基調から外れるわずかの文化人が好むだけの特殊形態なのである」と。

けばけばしい商店街の風景の画像

2. 欲望自然主義

そして著者は、何故日本がこのような事態になったのかを「欲望自然主義」と、あるべきでない物を無い事にする「精神主義」によって説明しようとする。

欲望自然主義」とは、政治学者の神島二郎によって唱えられた明治以降における我が国の精神的風土で、日本人による全体主義的な欲望の露出の仕方についての主張である。そこでは、日本人の欲望は、個々人が個別に選択したり律したりするのではなく、世間という複雑な相互作用の中で自然に発生していくのだ、と説明される。

更に日本人には、文楽の人形遣いを見えないものとし、障子向こうの声を聞かなかったことにするという、思うことによって存在を無かった事にする強い「精神主義」がある。

著者は、この「精神主義」が路上の電柱や電線を気にせずこれを放置する土台を作り、そしてこの「欲望自然主義」が歩道に溢れた商店の商品などに見られる、なし崩し的に権利を拡張していく性質や、一台あると増えていく路上駐車された自転車などの原因だと主張する。

神島二郎:丸山眞男と柳田國男に師事した日本政治学者、日本政治史家。日本が天皇を頂く全体主義へと向かった理由として、「第二のムラ」の概念を提唱した。【ウィキペディア:神島二郎

3. 奴隷的サービス

更に著者は、我が国におけるサービス業の極度の丁重さや定型化されたコミュニケーションにも不満があるという。

それは、そのような定型化された礼儀正しさに手堅い保身と経営戦術を認めるからであり、本心からではないその営業的丁重さを不誠実な醜いものと感じるからである。

加えて、チェーン店における従業員の、客という一人の人間が眼前にいるにも関わらず独り言を言っているかのような態度は、人をあたかも物体のように扱うものであり不快感を感じるという。

4. 言葉を信じない文化

また著者は、日本における極端に文脈に依存した言語文化ゆえの言葉を浪費しすぎる性質と、分厚い「タテマエ」に我慢ならないという。

前者の例としては、「お上」による「春の交通安全週間」や「歳末防災運動」などで、これらの幟や旗、そしてスピーカー音が醜く、更にこれを一週間程度行なって成果があるとはとても思えないために、著者は盛んにクレームをつけているという。

後者としては、例えば、オリンピックにおける選手のスピーチが挙げられている。それは、メダルをとった選手の「みなさまのご支援のおかげです」という白々しい文句などである。実際、選手本人が自分の本心を探れば「自分の固有の能力と、たえまない練習によって」達成できたことを知っており、「自分の本心を徹底的に探ろうとしない怠惰さ」と「世間から排斥されたくないという計算高さ」がそこにある、と著者は言う。

5. 醜と不快の哲学

最後に著者は、普遍性を持つ「」と「」に対して、「」と「不快」といった感受性に依存するものは普遍化できず、故に著者の様々な意見が伝わらないのだと主張する。

まず著者は、カントによる「」の「目的のない合目的性」という性質によって「」が普遍的形式であるとする一方で、「」の概念については醜いと感ずるが不快ではないものがあるとして、「」もまた普遍的であると断ずる。

更に「」と「不快」については、食べ物の好き嫌いなどのように、絶対に他人の立場を理解できないものであり、それ故に伝達の難しい感覚であるという。

よって、日本の醜い風景や人々の性質を著者がこれほど不快に感じ苦しんでいても、一向に相手に伝わらないし、改善される見込みもないのだという。

そして最後には、著者のような特殊な感受性を持つ少数派を排除しないような社会にすべきであると主張して、本作は終わる。

イマヌエル・カント:ドイツの哲学者で、観念論の創始者。観念論とは、人間は世界をその表象でしか知覚することができず、またその知覚も人間の思考構造に沿った形でしか認識できないとする考え方である。

感想

という激烈な日本人批判の書です。

しかしまず、著者の「混沌とした風景が日本人の趣味に合い、それ故に現在のような醜い街になった」という意見については、単純化している嫌いがあると思います。

なぜなら、日本は欧州とは異なり、急激な経済発展を経験していますし、我が国における建築様式の江戸期からの抜本的な変化ということもあります。また更には、たびたび起こる災害後において、街をパッチワーク的に修復せねばならなかったということもあります。

これらの欧州とは異なる環境と歴史が、現在のような日本の街を形成する原因の一部分になっていると思います。

更には、日本の猥雑な風景を日本人が常に心地よく感じているという意見にもまた賛同しません。ほとんどの日本人にとって、繁華街は皆で買い物をする時や食事にいく時などは心地よく、それ以外、例えば通勤途中などには目にしたくないものだと思われます。

しかしながら、本著者のような文化人気取りの人間とは違って、大部分の日本人は生きるために働き、湧き上がる欲望を日々飼い慣らしていくために四苦八苦していますので、その猥雑な繁華街も必要であり、時に湧き上がる不快感もそんな忙しい我々にとっては瑣末なことです。

また著者の、我が国におけるサービス業のマニュアル化された対応への不満もまたお門違いと言わざるをえません。

著者の言うように、確かに我が国のチェーン店の従業員の対応は表面的な丁寧さが目に付き、そして定型的です。しかしそれは、クレーム対応の効率化や個々の従業員に依存しない均一なサービスを実現するためです。そして従業員もそんな仕事なりの報酬しか受け取っていません。つまり消費者はそれによって安く品質の良いものやサービスを得ることができるわけで、それが嫌なら自身を不快にさせない召使でも雇えばいいのです。

さらに著者は、『醜と不快の哲学』において「」と「」についての理論を展開しますが、その浅さと非論理性といったらまた目も当てられません。

そして最後の、「日本には感受性のファシズムが支配している」という話にも少し難があります。確かに日本は(世界の先進国も同様だと思いますが)マジョリティのために作られ、マジョリティが「心地の良い」方向を目指して発展して来ました。しかしこの「心地良さ」に著者の言う感受性という基準を導入すべきかと言えば、私はそうは思いません。むしろ、貧困層や出自で差別されるというマイノリティをマジョリティに取り込む努力こそすべきで、そんな感受性など瑣末なことだと感じます。

それはなぜなら、マイノリティであってもマジョリティであっても、ある感受性が不快だと反応する物を排除していく社会というのは、不気味だと感じるからです。もしそうなったら、ハンセン病の人々はどうなるのでしょう。正直のところ、私はハンセン病の人を見ると恐ろしいですが、この方々は我々と同様に暮らしていく権利があると思います。つまり、ハンセン病の人々のその権利を守るためには、私の感受性など一顧だに値しないものだということです。

という著者への苦言でした。しかしだからと言って、本作の価値が無いと言っているわけでは全くありません。著者の言うことが全て正しいとは思いませんが、正鵠を射ているなと感じることも多々ありました。そして、こんなジジイが居たらそれはそれで面白いし、人間が感じることの多様さを知るためにもまたいいと思います。

脚色されたエンタメとしての日本人論

また参考として、本著者が受けたインタビューのリンクを張っています。ここでの発言は、本作の道理を知らない子供のような言動は影を潜めていて、至極まっとうな内容でした。【mammo.tv: #100 語らない美学は人を損なう - 中島 義道 さん(電気通信大学教授 哲学博士)

従って、本作は著者の思いの丈をそのまま書いているというよりも、むしろ脚色されたエンターテイメントとして見るべきのものなのかもしれません。
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