脳と魂 養老 孟司、玄侑 宗久 共著

脳と魂 (ちくま文庫)脳と魂
ちくま文庫
(2007/05)
養老 孟司、玄侑 宗久 他
★★★☆☆
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養老孟司氏と玄侑宗久氏による対談集。その話題は、身体論(第一章 観念と身体)、社会システム(第二章 都市と自然)、日本人と日本文化(第三章 世間と個人)、脳とシステム(第四章 脳と魂)と幅広い。

本書での2人の対談は、観念的唯物論者である養老氏の論理を、逐一、仏僧である玄侑氏が仏教的文脈に置き換えるという感じでした。

ここで、私なりの養老氏の世界観を紹介をしておくと、養老氏は上記に書いたように観念的唯物論者というのが私の見解です。ここで観念的と言っているのは、バークリやカントに端を発する観念論ですが、これを現代科学の成果を基に焼き直したものが養老氏の世界観だと私は考えています。

それから、本書の表題である『脳と魂』についてですが、玄侑氏としては何とか「魂」に神秘性を持たせようと必死になっているんだけど、養老氏の結論としては、魂は定義できないからなんとも言えないけど、強いて言うならシステム。うんまあ、そうでしょうていう感想です。

解説と考察

ちょっと面白かった話題について、紹介するとともに考察していきます。

儒教と道教と仏教

養老 社会を生きるには儒教、個人の問題を考えるときは道教、抽象思考は仏教(p. 76)

この「抽象思考は仏教」ってとこが面白いですが、実際『』の概念などは、西洋近代哲学の概念に対応付けられているそうです。

基本はイデア

玄侑 現実には応用しかなくて、様々な応用から抽出した、どの現実にも属さないフィクションが「基本」(p. 99)

ここで言っている「基本」とは、人間の思考だけに留まっている「もの」のことを言っていて、哲学的にはプラトン先生が定義した「イデア」に対応します。

「イデア」は例えば、内角が完全に60度である正三角形などの抽象的対象のことです。しかし、これがフィクションなのかは議論の余地があります。なぜなら、先端の物理学では情報がエネルギーに置き換えられていますので、「イデア」と情報が等価であるなら、相対性理論によるエネルギーと質量の等価性により、情報が実体を持つことになります。

無意識とは

玄侑 意識と無意識っていったときに、無意識は意識の射程に置けますよね。(p. 109)

ここでの「無意識を意識の射程に置く」ということが、実際は不可能だということが、最近の科学実験により明らかにされています。

それは、意識も無意識の産物だという結果です。つまり、我々の「あれをしよう」、「こう動こう」というような想起や、意識上に幾つかの選択肢を置いてそこから選ぶ判断などは、それ以前に脳内の電気的パルスとして準備されたものであるようなのです。

科学は今のところ人間を作れない

養老 営々として何十年も動かしてきたものがね。それでそれを修理できるかっていったら、誰もできないんですよ。人にはそれができない。(p. 235)

この話題は、人間を破壊するのは簡単だが、壊された人間を元に戻すことはできないということを言っていて、「人を殺してはいけない」という問いに対する、養老氏なりの答えだと思います。

この答えは、科学は人間を創造することができない、未だ一つの細胞も工学的に作ることができないという事実に基づいて、養老氏が出されたものだと思いますが、それは真面目にその問いに答えようとしたときの一つの答えだと、私は感じました。


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