虐殺器官 伊藤計劃 著

虐殺器官
ハヤカワ文庫JA
(2007/06)
伊藤計劃
★★★★☆
Amazonで詳細を見る

伊藤計劃の『虐殺器官』は、9.11後の先進国とテロリストの戦いが続く世界を現実的に描いた近未来SF小説である。

アメリカの特殊部隊員を主人公としたスパイ物でもあるが、近年の科学的知見を総合した蓋然性のある思索により、現代の様々な問題に向き合った作品でもある。

また本作は「ベストSF2007」など様々なランキングでトップを飾り、熱狂的な支持者も多い。

しかしながら、本著者伊藤計劃は2009年に亡くなっている。

あらすじ

テロリストとの戦いに突入した9.11以降の世界は、サラエボでの核爆弾による自殺テロという未曽有の事態を経験する。これにより先進国は、国内における全ての人間の行動履歴を追跡し記録するという管理社会へと変貌。ピザを一枚買うことでさえ、光彩もしくは指紋認証を強いられる社会へと変わってしまう。

アメリカ情報軍クラヴィス・シェパードは、ある後進国の要人暗殺のため軍用機上にいた。作戦の開始と共に、ステルス機能を持った軍用機から人工筋肉で構成される着陸装置で地上に降り、ターゲットを目指す。

ターゲットは、「暫定政府」を名乗る武装集団の「国務大臣」で、彼らは村々を巡回して反目する集団、疑わしき人間を殺害し、子供の徴兵を行っていた。作戦は、アメリカ情報部が手に入れた、某町で「国務大臣」と「文化情報次官」が会見するという情報を基に立案されていた。

ターゲットが会見しているというモスクに着いたシェパードと三人の部下は、作戦に従い二手に分かれる。シェパードはモスクに忍び込みターゲットを確認。しかしそこには「国務大臣」のみで、もう一方の標的はいなかった。標的が揃うの待つような余裕はなく、シェパードは「国務大臣」のみの暗殺にシフトする。

素早く標的の背後にまわりこみ、両腕を拘束し喉元にナイフを突きつける。「国務大臣」に「文化情報次官」のことを聞くと、来るはずだった「文化情報次官」はこの国を離れたという。
ここでできることはすべてした
というメッセージだけを伝令に託して。

シェパードは続いて虐殺の理由を聞く。モスクの外で鳴り続く銃声をバックグラウンドに「国務大臣」は答える。
そうだ、われわれはなぜこんなことになってしまったのか……。寛容と多文化主義こそがこの国の美徳ではなかったか。そうだ、テロリストだ。非寛容を母として生まれたテロリストどものせいだ……いや、違う……そんなものは軍を首都に入れなくとも、警察力のみで充分に対処できたはずだ……なぜだ、なぜこんなことになったんだ
それは自分が殺してきたことに本気で戸惑っているかのような口調であった。シェパードはこの標的が、自分で始めた内戦の動機を喪失していることに愕然とする。再び虐殺の理由を問うシェパードに、標的は「わたしはなぜ殺してきた」、「たのむ、教えてくれ、俺はなんで殺してきた」と常軌を逸したように、問いで返すばかりであった。

問答にもならないやり取りに限界を感じ、シェパードは「国務大臣」の心臓にナイフを突き立てる。そして部下に「文化情報次官」は来ないことを伝え、死亡した「国務大臣」を残し、シェパード達は撤退する。

それからも様々な後進諸国での虐殺は続いた。それらの国々では必ず某国の「文化情報次官」であったジョン・ポールの名が浮かび上がり、暗殺の対象になった。しかし作戦の度、ジョン・ポールは国を離れた後だった…。

感想

物語はそのほとんどを軍人らしからぬ内省的精神を持った主人公、クラヴィス・シェパードの一人称で進行する。シェパードは、自殺した父親、夫を亡くしながらも女手一つでシェパードを育て上げた母、特殊部隊員として殺害してきた膨大な人間のことを、度々思い返す。その中でも、脳を損傷した母親の延命を断った自分の判断は、以後のシェパードの心に大きな影を落とす。

このような人間ドラマを通して、伊藤計劃は、意識や自我について、知覚と認識について、近年の科学的知見を総合した思索を展開する。

本作の人間達の係わり合いは、特に普遍的でもなく、また独創的でもないが、そこで語られる科学的知見、哲学的な思索は、興味深くエキサイティングだった。


また本作は、テロリストとの戦いが続く、近未来の情報管理社会を舞台としているが、その未来の世界は現実的でありながらも、救いのない世界である。

このような世界で語られる、アメリカの戦争とは何か、より大きな枠組みでの国民国家の戦争とは何か、という伊藤計劃の洞察も一意見としておもしろい。

ただし、本作の世界は現実的過ぎて、誰も想像したことのない世界を描くというSFとしての面白さは欠けているが…。


そして、虐殺器官という本作の核は、進化論的バックグラウンドを持った器官としての言語、そして良心という人間に内在する機能の分析を通して明らかにされていく。

虐殺器官が存在する可能性はほぼないだろうし、それ故にこの器官を説明する論理に納得感は薄い。しかし、虐殺器官に漸近するための情報や思索は、人間というものを理解したい人々には興味深く感じられると思う。

科学的知見と思索

器官としての自我と言語

本作では、自我と言語が、腎臓や腸、腕や眼と同様に、進化論的意味で人間の器官であると語られる。それはその器官の前駆体を突然変異によって獲得した個体が、自然の中で結果として生き残っていった、つまり適応したことを意味する。

そして自我を獲得した個体は、「予想する」ことが可能になったと語られる。それは自我を獲得した人間は、自分と他者を区別できるようなるからだ、と言う。それは例えば、他者がある危険な出来事を経験した時、もし自分がその経験をしたらと思いめぐらすことなどである。

そして言語は、個体間の「予想」の交換を可能にし、それらによる自分の経験していないことのデータベースはより生存適応性を高めるだろうと。


現代科学において、自我と言語が進化論的意味で人間が獲得した機能であるという決定的な証拠はまだない。しかし言語に限れば、このような議論は蓋然性の高いものとして受け入れられている。しかしもちろん、より適応性の高い機能が発生したときの副産物として得られた可能性もある。

さらに器官という言葉は、自我と言語機能が脳の特定の部位に局在していることを暗に含む。言語機能に関しては、文の構成処理に主要な役割を果たすブローカー野、音韻処理を担うウェルニッケ野などの局在が知られている。しかしながら、自我の局在性についてはわかっていない

自我という言葉は科学的に定義された言葉ではないが、本作の文脈では自我は自己への意識、つまり自己意識という科学的に定義された言葉と等価とみなすことが出来る。脳科学においては、自己意識は意識の一種と考えられ、自分の知覚や思考や感情への意識、自分の経験が自分の経験であると認識する意識である。

しかし現代科学では、意識の問題、意識と無意識の区別の問題は途上であり、自己無意識というものがないとも限らない


器官:生物を構成する単位で、形態的に他と区別可能かつ、それ全体で一つの機能を担うもの。【参考:ウィキペディア「器官」

音韻:言語の音の体系のこと。例えば日本語の「あ」は、英語では4種類(〔α〕〔æ〕〔э〕〔Λ〕)あるため異なる体系である。

【参考:脳科学辞典「意識」脳科学辞典「自己意識」脳科学辞典「言語中枢」

言語器官

本作では、言語器官を支持する事例として混成語(クレオール)の存在が語られる。

クレオールは、ピジン言語というほぼ文法のない言葉を聞いて育った子供達によって自然と作られる言語である。にもかかわらず、クレオールは既存の言語と同レベルの複雑な文法構造を持つ。

現代の脳科学は、言語機能の脳における局在性を明らかにしつつあり、人間には言語器官があると考えることは、間違いではない。しかしながら、言語機能が生存適応の結果として獲得されたものなのか、ノーム・チョムスキーが唱えた普遍文法のような脳内に組み込まれた文法が存在するのか、様々な問題が残っている


クレオール:意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供達の世代で母語として話されるようになった言語。【参考:ウィキペディア「クレオール言語」

ピジン英語:現地人と貿易商人などの外国語を話す人々との間で異言語間の意思疎通のために自然に作られた接触言語。【参考:ウィキペディア「ピジン言語」

普遍文法:普遍文法とは、人間が生得的に持つ言語機能が存在し、全言語はこの言語機能から導かれる普遍的な構造を保持しているという理論。ノーム・チョムスキーにより提唱された。【参考:ウィキペディア「普遍文法」

【参考:ウィキペディア「言語の期限」

意識の段階

本作ではまた、感覚と知覚の差異、心のモジュール性、そして意識の段階などの脳科学の知見も語られる。

脳の視覚に関する領域を卒中などで損傷して何も視えなくなった被験者が、自分に向かって投げられたボールをひょいとよける、という実験があった。この被験者は自分は盲目だと主張するだろうし、実際その世界は暗黒なのだが、それでもなお、彼は目の前に何かがあるということをだいたいの場合理解できたのだ。それでいて、自分は別のチャンネルで視えているということを理解できない。

この場合、視神経は傷ついていない。こうしたずれが生じるのは「視る」という行為が二つの要素によって成り立っているからだ。すなわち、色や形や世界を感じるということと、そこに何かがあるということ、その二つを別に処理する脳の小さな一角。

「視える」ということと「知覚する」ということは、脳の別々の部位によって処理されているのだ。リンゴが青いとか、柱が四角いとか、ぼくらが視るということはほとんどそのような「感覚」によって構成されているが、実はそうした「感覚」によらない視覚も存在し、眼球はその場所へ視覚情報を送り続けているのだ。
以上の知見では、意識にのぼる視覚処理と意識にのぼらない視覚処理が脳の別々の領域で行われており、また後者の無意識化の処理が体を勝手に動かすことさえあることを教える。

さらに伊藤計劃は続ける。
「視る」という行為ひとつとっても、これだけややこしい脳の局在が存在する。脳がどれだけの処理プログラムに分解できるかなど、想像もつかない。いまのところ、それは572だと医者は言う。

このような脳機能のモジュール性が明らかになり、また意識できるか否かモジュールによって区分できるとすると、ある瞬間の意識はその瞬間に起動している意識を構成するモジュールの総体であるという考えに至る。

このような考えとして伊藤計劃は以下を述べる。
眠りと覚醒のあいだにも、約20の亜段階が存在します。意識、ここにいるわたしという自我は、常に一定のレベルを保っているわけではないのです。あるモジュールが機能し、あるモジュールはスリープする。スリープしたモジュールがうっかり呼び出しに応答しない場合だってある。物忘れや記憶の混乱はそのわかりやすい例ですし、アルコールやドラッグによる酩酊状態もまた、その一種です。こうして話しているいまだって、わたしやあなたの意識というのは一定の……こう言ってよければ、クオリティを保っているわけではない。わたしやあなたは、たえず薄まったり濃くなったりしているのです。

以上の議論は、科学的にも蓋然性が高い。しかし、現代の脳科学はより広範な実験事実をカヴァーする理論として情報統合理論を提示している。

情報統合理論では、意識の量として意識を構成するモジュールだけでなく、モジュール間のネットワーク接続も必要だと主張する。

昏睡状態や睡眠状態では意識がないことを我々は経験している。しかし、このときの脳の活動レベルは覚醒状態と同様に高い。一方、睡眠時と覚醒時の脳への電気信号の伝達動作を調べた研究があり、電気信号は睡眠時では脳内に広がらず、覚醒時では脳内に拡散していくことが明らかにされている。

この実験事実から、意識の存在にはモジュール間のネットワーク接続が不可欠だと理解できる。

しかしもちろん、未だ明らかにされていない様々な問題がある。それは例えば、意識を構成するモジュールと無意識を担うモジュールの違いは何か単純にネットワークと言っているがどのようなネットワーク構造なら意識に参画可能なのか意識となるための臨界値が存在するか、または意識が発生するために最低限必要なネットワーク構造が存在するかなどである。

【参考:脳科学辞典「意識」

生存適応と利他行動

本作の仕掛けを説明する議論として、複雑な生物系では利他行動が観察され、またそれは生存適応の結果として獲得される機能、つまりは本能であるという説明がある。

例えば蜂は、巣を守るために毒針を一刺しした後死んでしまう。それは自分の生存を放棄して、群れあるいは種全体の保存のために行動していることを示す。

このようなプログラムが人間にも存在するということは、リチャード・ドーキンスの著作『利己的な遺伝子』などでも議論されている。

また本作では、このような利他行動の存在可能性は、ゲーム理論でもシミュレーションできることを紹介している。

それは次第に複雑化していくシミュレーションで、初期の単純な状態では個体は純粋に自分のためにしか動かず、個体は基本的に暴力的な収奪を繰り返す。しかしシミュレーションの個体が世代を重ね複雑化していくと、目先の利益よりも集団を形成して行動する個体の群れが現れ、これらがより安定化する。一方、利他的行動を取れない個体は集団を形成しても結局は集団を裏切り、安定した集合を形成できない。

そして本作では、人間の「良心」というものがこのような生存適応の結果として得られたと主張される

参考資料

本作で参考にされたであろう資料として、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』、スティーブン・ピンカーの『言語を生みだす本能』が挙げられる。

『利己的な遺伝子』は、一般向けにネオダーウィニズムを紹介した作品であり、本作との関係は深い。

『言語を生みだす本能』は、ネオダーウィニズムの言語機能への適応を、様々な証拠と共に説明した著作である。

利己的な遺伝子
リチャード・ドーキンス
Amazonで詳細を見る
言語を生みだす本能
スティーブン・ピンカー
Amazonで詳細を見る

スポンサーリンク
スポンサーリンク